不登校は「こころを守る反応」 こころがかけたブレーキ

看護師 山田祥和

「行かなくなった」、「行けなくなった」のではなく、必死に耐えてきた結果


不登校になると、どうしても「どうして行けなくなったのか」、「このままで大丈夫なのか」という問いが、本人や家族の中で先に立ちます。

けれど、支援の現場で子どもたちと関わっていると、不登校は「怠け」や「逃げ」ではなく、こころが限界を迎える前にブレーキをかけた反応であることがよく分かります。

不登校とは、壊れてしまう前に、こころが自分を守ろうとした結果なのです。

行けなくなったのではなく「止まらざるを得なかった」


多くの子どもは、ある日突然学校に行けなくなるわけではありません。無理をして頑張ってきましたし、嫌でも我慢してきました。苦しい気持ちを飲み込んできて、助けてほしいと言えなかったかもしれません。

そうした積み重ねの先に、ある朝、身体が動かなくなる、強い不安が出る、涙が止まらなくなるといった形で限界が表れます。

これは心が弱いからではありません。むしろ、限界まで耐えてきた結果なのです。

こころには「これ以上は危険」というサインがある


こころや脳には、安全を守るための仕組みがあります。このまま続けると壊れてしまう。これ以上耐えると回復できなくなる。

そう判断したとき、脳は強制的にブレーキをかけます。

不安、恐怖、強い拒否反応、身体症状(頭痛い、おなか痛い、気持ち悪い)

これらは「困った症状」ではなく、これ以上進むと危険だという警告です。不登校は、その警告に従った結果として起こることがあります。

周囲から見えにくい「こころの消耗」


不登校の子どもは、家では元気そうに見えることもあります。ゲームをしたり、笑ったり、ご飯を食べたりする姿を見て、「本当に苦しいのだろうか」と思われることもあります。

しかし、安心できる環境でエネルギーを回復しているだけであり、学校という場に向かうと再び強い消耗が起きます。

こころの疲労は、骨折や発熱のように目に見えません
だからこそ、「見えない消耗」が限界を超えていたことが見過ごされやすいのです。

不登校は「適応できなかった」のではない


「社会に適応できなかった」
「集団生活が苦手だった」

そう表現されることもありますが、実際には合わない環境に適応し続けた結果、こころが摩耗したケースも多くあります。

大きな音や人の多さ、曖昧なルール、評価や比較、人間関係の緊張など。

これらが積み重なれば、どんな人でも消耗します。不登校は、その環境がその子にとって過酷だったことを示すサインでもあります。

環境が合えば適応できます

無理に戻そうとすると、こころはさらに硬くなる


不登校を「早く戻すべき問題」として扱うと、こころはさらに追い詰められます。

行かなければならない、頑張らなければならない、迷惑をかけている

こうした思いが重なると、不安や自己否定が強まり、「守るための反応」がより強固になります。

回復には、まず「止まってよかった」、「ここまで頑張ってきたんだね」という理解が必要です。学校に行かないという選択肢を選んだことを認めてあげるとよいでしょう。

回復は「動き出す」より先に「安心する」ことから


不登校からの回復は、登校再開がスタートではありません。安心できる、否定されない、評価されない、比べられない

そうした環境で、こころがゆっくりと緩むことが最初の一歩です。

安心が土台にできたとき、子どもは自分から外に目を向け始めます。これは急かして起こるものではなく、安全が確認された結果として自然に起こる変化です。

不登校は「生き延びるための選択」


不登校は失敗ではありません。後退でもありません。
その子が、その時点で持っていた力と環境の中で、生き延びるために選んだ最善の反応です。

こころを守ったからこそ、今もここにいる。その事実を大人がどう受け止めるかで、その後の回復の道筋は大きく変わります

不登校は、立ち止まるサインであり、やり直しの合図です。こころを守った経験は、決して無駄にはなりません。

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